バングラデシュの歴史
1947年にイギリスのインド支配が終わり、英領インド地域は宗教を基にしてヒンドゥー地域はインド、イスラム地域はパキスタンに分割されました。
インドを挟んで東西に存在したイスラム地域は西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)とし、それをもって一つのパキスタンとして独立しました。
ベンガル語を公用語とする東パキスタンでは人口も多く商品作物の生産も盛んでしたが、ウルドゥ語を公用語とする西パキスタンが政治的主導権を握っており、東パキスタンは文化・経済・政治的差別に苦しんでいました。
その中で1952年、西パキスタンのウルドゥ語を、全パキスタンでの公用語にしようとしたパキスタン中央政府に対する東パキスタンでの抗議運動から、バングラデシュの独立運動の動きが始まりました。
2月21日ダッカ市内の学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出したことが、後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動と記憶されています。
1966年、まず東パキスタンのムジブル・ラーマン率いる政党「アワミ連盟」が、国防・外交・通貨以外を州管轄事項とする完全自治の6項目綱領を基本に東パキスタン地域の自治権の主張をしました。
脅威を感じたパキスタン中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕、それをきっかけに東パキスタンで6項目要求ゼネスト(ホルタル)が活発となりました。
1970年、東パキスタンではさらに反政府運動が高まり、次のパキスタン国民議会総選挙で東パキスタンを本拠地にするアワミ連盟が大勝利すると、当時のヤヒヤー大統領は国民会議の延期を発表し引き延ばしました。
1971年3月25日、ムジブルの激を機に盛り上がる独立運動と、それを鎮圧するパキスタン中央政府・軍の間で独立戦争が始まり、早々にインドは独立を支持しました。
4月10日ムジブルは「バングラデシュ人民共和国」として独立を正式に宣言し、ムジブ大統領に指名しました。
しかし5月にはパキスタン軍がバングラデシュ全土を制圧、大量虐殺が行われ、インドへの避難民が100万人を超しました。
その後、インド対パキスタンの関係が悪化しインド軍の本格侵略を受け(第3次印パ戦争)、パキスタン側の全面敗北となり、バングラデシュは独立を手にしました。
独立後、民主主義国家という原則も1975年のクーデーターによるムジブル・ラーマン大統領の暗殺、その後は軍人大統領ジアウル・ラーマンによる独裁政治となるが、彼も軍内部反乱により殺害されます。
その後に再び軍人のエルシャド中将が軍事政権を樹立しますが学生運動等による民主化の波に押されて、1990年には退陣、軍人独裁政治が終わりました。
1991年、民主化後、初の総選挙でバングラデシュ民族主義党(BNP)が勝利し、党首カレダ・ジア(ジアウル・ラーマンの妻)が首相に就任しました。
1996 年、次の総選挙で今度はアワミ連盟が勝利し、党首シェイク・ハシナ(ムジブル・ラーマンの娘)が首相に就任するが、2001年には再びBNPが、そしてひ と悶着し延び延びになった次の総選挙では2008年にはアワミ連盟が再び政権奪取と、シーソーのように移動しています。